古いものが使われなくなり、
新しいものが使われるようになる。
子供の頃の服、動かなくなった洗濯機、古いスマホ。
誰もが一度は、そのような新旧交代を自分の生活の中で経験しています。
同じようなことが言葉にも起こり得ます。
例えば、mailという英単語。
元々は郵便物を意味していたが、今日では文脈によって、電子メールを意味することがあります。
古いものから滲み出る物語
子供の頃の服をもう着なくなったからといって、母親は何の感情も帯びず捨てられるでしょうか?
簡単には捨てがたい何か、思い出、物語、を古くなった服から感じ取り、
すぐには捨てることができないかもしれません。
不必要な事物特有の哀愁、切なさは、捨てるという行為に紐付き、より強く立ち上がります。
不必要な言葉
これもまた、言葉にも当てはまり得ます。
昔の流行語に、なんともいえない情けなさを感じるように。
特にカタカナ語はもともと多義的な性質を持つので、
古いものと新しいものが時代を経て同居するような不思議な様相を呈することがあると感じます。
言葉が古臭く、また、それが現代でも通用する言葉である時、
言葉と意味との接合が弱まり、その隙間に新たな物語や意味を含ませることが可能やもしれません。
そのようなことが文化的に許されるとするならば、
私個人としては、傷ついてしまった言葉の印象を回復、
あるいは新しい物語を獲得するという行為に可能性を見出しています。
DMという言葉の様相
DMとはダイレクトメールのことです。
封書やハガキの形で、顧客の家などにダイレクトに届く広告物となります。
このDMというあまり歓迎されていない言葉に新たな物語性や
古臭さの中に立ち上がる哀愁を感じるために、
下記のようなワークショップを行ってみることにします。
果たして、DMという巷に溢れたマーケティング用語に、
文化的側面から物語性を獲得できるのか、楽しみです。