本来、誰にも縛られないのが言葉。法律やルールで完全に取り締まるものではない。多くの人の心に影響することもある。そこにある小さな嘘が、私たちの文化に作用してはいないだろうか。
ブランディングや広告のお仕事をさせていただいていると、言葉の意味や影響力を考えることが多くなります。
自分だけでなく、誰かの使っているメッセージやコピーも。
伝えることを生業にしながら(ほとんどの人が伝えることはできる)、言葉の文化や影響力を自覚している人はそれほど多くないかもしれません。
みんな自由にその影響力を行使したいと考えます。人々を自分の考える方向に歩ませたいからです。
自分なら興味もないことを何度も何度も聞かされるとうんざりすることがわかっているにも関わらず、人の感情を動かすことは難しいので、欲望と不安を煽る言葉が増えます。
有名人が使う言葉、企業が使う言葉、隣の誰かが使う言葉。
どのように捉えるかは私たちの自由です。どの言葉を信じるかも。
そしてこれまでは言葉をどう使うかも自由でした。
しかし、言葉は時に人を傷つけることがわかり、言葉を行使する側の責任が問われるようになりました。
私たちは言葉に不自由になるのです。
言葉の信用は徐々に失われています。その責任は使う側と受け取る側双方にあります。
言葉は本来多義的です。しかも時代とともに増え、変わっていきます。
そしていつか、何の意味も為さず、何の感情も示さず、何のシグナルも発しない
無意味な様相となるかもしれません。
そうなったとき、言葉はピュアな文化となるでしょう。
失われたレガシーとして。
言葉のAspect展 2021年10月29(金),30(土),31(日)
執筆者
神野太志